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10年〜20年なんて・・・・待ったなしですよね! [記事]

2/9(金) 13:58配信
教員養成セミナー2月号掲載の、教科横断型&探究型の学習への移行についての、
苫野一徳熊本大学准教授の記事です。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180209-00010000-kyousemi-soci


10年〜20年なんて・・・・・
待ったなしでしょう。

自分達で主体的に学びをチェンジしましょう。








以下、記事を転載します。
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「743年墾田永年私財法」。生徒たちはなぜ覚えなければならないか?誰も答えられない。

これからの時代の「教科横断的な学び」
2/9(金) 13:58配信
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「743年墾田永年私財法」。生徒たちはなぜ覚えなければならないか?誰も答えられない。




【なぜ「教科」を勉強するの?】

 子どもたちは、国語、算数(数学)、理科、社会、英語など、あらかじめ決められたさまざまな教科のさまざまな内容を、学校でまんべんなく学んでいます。それも、みんなで同じ内容を、同じペースで、同じようなやり方で。

 でも、なぜこれらの教科の内容が、すべての子どもたちに一斉に教えられなければならないのか、私たちは十分に説明することができるでしょうか?

 生徒たちは、なぜみんながみんな、墾田永年私財法発布の年号を覚えなければならないのでしょう?二次方程式を学ばなければならないのでしょう? 元素記号を覚えなければならないのでしょう?

 実を言うと、この問いに絶対の答えを言える人はいません。というのも、やや乱暴に言ってしまうなら、今の学校のカリキュラムは、公教育が始まった明治以来の「選抜のためのカリキュラム」の名残を、今なお色濃くとどめているからです。決められた内容を、どれだけ大量に記憶し効率的に取り出せるか。その能力に応じて、子どもたちは社会の諸階層に割り振られてきたのです。

 でも、私たちは本来、学校を単なる選抜のための装置ではなく、これからの時代を生きる“すべての子どもたち”にとって、本当に必要な力を育める場にしなければなりません。

それは一体、どのような力なのでしょう?

 特に現代においては、それは実生活に役に立つのか立たないのかいまいちよく分からない、細かな知識をただ覚え込むだけの力ではないはずです。むしろ、「必要なことを必要に応じて学ぶ力」や、「自分なりの問いを、自分なりの仕方で、自分なりの答えにたどり着く探究する力」こそが、今日特に必要な“学力”と言うべきでしょう。「743年墾田永年私財法」などと、ただ字面を暗記するのではなく、日本史の知識や理解が必要になった時に、それを力強く自分のものにすることができる、そのような力こそ、本当の意味での“生きる力”と言うべきでしょう。

 今、世界の教育のパラダイム(ものの見方・考え方)は、いわゆる「コンテンツ・ベース(知識の習得を重視する)からコンピテンシー・ベース(資質・能力の育成を重視する)へ」と転換をとげつつあります。この点、日本はとりわけヨーロッパ諸国に比べて周回遅れの感がありますが、今後10~20年ほどかけて、ゆるやかに、でもラディカルに、カリキュラム改革を進めていかなければなりません。


【カリキュラム・マネジメントの可能性】
 そんなわけで、今、「決められた教科を、決められた時間割に従って、決められた通りに学んでいく」、そんな学びからの転換が図られはじめています。

 新学習指導要領で、「カリキュラム・マネジメント」ということが言われるようになりました。その1 つの柱として、「教科横断的な視点から教育活動の改善を行っていく」ことが挙げられています。

 現段階における現実的な方策として言われているのは、たとえば、英語の授業で社会科と関連するテーマや教材を取り上げたり、歴史の史料読解に統計的要素を取り入れたりといった、「教科横断」的な学びです。

 でも私自身は、カリキュラム・マネジメントには、このようないくらか取ってつけたような「教科横断」以上の可能性があると考えています。

 私が長らく提言しているのは、カリキュラムの中核を「探究型の学び」「プロジェクト型の学び」にしていくことです。「決められた教科を、決められた時間割に従って、決められた通りに学んでいく」学びではなく、「自分(たち)なりの問いを、自分(たち)なりの仕方で探究しながら、自分(たち)なりの答えにたどり着く」学びです。

 探究のテーマは、時と場合によっては教師が決めてもいいかもしれませんが、重要なのは、この学びには、あらかじめガッチリ決められた「問い」や「答え」が必ずしもないということです。

 たとえば、現代社会の最大の問題の一つ「格差」をテーマとして設定したとしましょう。

 その際、ある子どもたちは、それぞれの関心に応じて、「格差」の実情を知りたいという問いを立てるかもしれません。また別の子どもたちは、格差の歴史に特化した問いを立てるかもしれません。あるいはまた別の子どもたちは、「本当に格差はダメなことなのか?」といった哲学的な問いを立てたりするかもしれません。

 このように、自身で立てた問いについて、子どもたちは、図書資料やインターネットで調べたり、専門家にインタビューしたりと、それぞれに学びの方法を工夫しながら、文字通り「教科横断」的に探究を深めていくのです。こうした学びの中で、子どもたちは、「意義のある問いの立て方」や、「自分なりの学び方」などをつかみ取っていくことでしょう。


【「教科横断」から「探究」へ】
 言うまでもなく、これは本来「総合的な学習の時間」に期待されていたことでした。

 でも、「総合」はこれまでに、いくらかその本質が骨抜きにされてしまった感がないわけではありません。理由の一つには、そのような学びをどのようにコーディネートすればよいか分からないという、教師の本音もあったかと思います。

 その意味で、カリキュラム・マネジメントにおける「教科横断的な視点」の明記が、教科指導にとらわれてきた教師の視野を広げてくれることを私は期待したいと思っています。

 とりあえずは、取ってつけたような「教科横断」でも構わないので、先生方には各教科同士で協力し合って、子どもたちの学びの幅を広げてもらいたいと思います。その上で、徐々に「探究型の学び」へと学びを進め深めていきたいと。

 「探究」をカリキュラムの中核にするならば、今後学習内容の精選が不可欠になりますが、この問題についてはここでこれ以上取り上げる余裕がありません。しかしいずれにせよ、今後10 ~ 20年ほどかけて、カリキュラムの中核が教科横断的な探究型になるのは、おそらく間違いないと思います。大学入試改革も、多くの困難を抱えながらも、今後その方向に向けて進んでいくはずです。


【編集部より 自分でも考えてみよう! 】
■そもそも「教科」とは何か? 
→ある教科で学習する事柄が、別の教科で 学習する事柄とどのような相関関係にあるのか、自身の「常識」を捨てて再考してみよう。

■「教える(ティーチング)」とは何か? 
→子どもたちに何を伝えるのが 教師の本質なのか?知識なのか、考え方なのか、それとも両方なのか、他の何かか、自分の考えをまとめてみよう。


苫野一徳(とまの・いっとく)
熊本大学教育学部准教授
1980年生まれ。兵庫県出身。哲学者・教育学者。早稲田大学大学院教育学研究科博士課程単位取得満期退学。博士( 教育学)。

『月刊教員養成セミナー 2018年2月号』より

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